細胞はなぜがん化するのか、がん細胞はなぜ転移を起こすのかに関する研究は、約200年間続けられてきました。多数の発がん責任分子やシグナル異常などの情報は得られました。しかし、なぜそのような分子異常が引き起こされるのかについては未だに不明です。従って、現在も当初の疑問に対する答えを得たとはいえません。
それはがん化や転移能の獲得には、生物に共通する老化や発生・進化等の過程にみられる最も根本的な機能を借用し、あるいはその一部を改変しているためなのかもしれません。まだ明らかにされていない大切な原因が隠れているのです。
実験病理学分野では、発がん・悪性化の機序解明と、予防・治療法の開発を目指しています。我々は、がん研究の原点に立ち戻り、解決されぬ疑問に真っ正面から挑む研究を行います。
炎症発がん機構の解明と予防法の開発
世界のがん死原因の20〜25%を炎症・感染症が占めています。炎症は、正常細胞のがん化だけでなく、がん細胞が悪性の形質(浸潤・転移など)を獲得する悪性化に至るまで、発がんに関わるすべての過程に関わることが分かってきました。従って、炎症は生体内における”発がんniche”として捉えることができます。
換言しますと、原因と結果がこれほど明確に示されている発がん要因はありませんので、炎症はがんの予防を達成する最初の標的となります。実験病理学分野では、このような観点から、独自に開発した“炎症発がん”の動物モデル等を用いて、炎症発がん機構の解析と予防へ向けた新たな切り口から探索研究を行っています。
新たな発がん要因の同定と提唱
今から30年ほど前にがん疫学者は、喫煙、食事と炎症が、ヒト発がん要因の75%を占めることを示しました。現在ではそれぞれの比率がわずかに変動しているようですが、今でも主要な発がん要因と考えられています。それでは、例えば食事の具体的な発がん因子にはどのようなものがあるのでしょうか。そこが最も知りたいところです。
発がん因子の証明には、数年間の長期にわたる動物実験を経なければなりません。このことが、発がん因子の決定の際に大きな障害となってきました。そこで、観察期間を短縮して、かつ一挙に多数検体の発がん性の有無を推測することのできる発がんスクリーニング系の確立を進めています。また、がん疫学者の提唱している要因とは別に、本来生体に備わっている臓器や組織に生じる生理的な環境変化や、さまざまな障害を受けた際の回復機構そのものが、発がん要因になるのではないかと考えて、具体的な発がん要因の同定を進めております。
マイクロRNAによるがん転移予防
がんは、早期に発見して治療すれば治る病気になりつつあります。しかし、多くの遺伝子変異を蓄積したがん細胞が増え続けると、やがて別の場所に転移してしまうのが難題です。転移したがん細胞は、極めて悪性度の高い細胞であり、いわば「がん」の超エリートといえます。がん転移は、命を脅かします。これまで、多くの抗がん剤が開発され効果を上げてきましたが、がんの転移をくい止める薬はまだ実在していません。転移を防ぐことは、「がん」との戦いに勝利することを意味します。
RNAは遺伝子の情報を写し取って身体の構成要素であるタンパク質を作ります。2003年にヒトゲノム(ヒトの全遺伝情報)の解読が完了した際、タンパク質になる情報を持っていない領域がなんと全体の98%もあることが分かり、そこから生成される多くのRNAは、役に立たないガラクタと考えられていました。ところが近年の研究で、そういったRNAが細胞内や体内の環境を維持するために重要な役割を担うことが明らかになってきたのです。そのうちの一つがマイクロRNA(miRNAもしくはmiR)と呼ばれる小さな分子です。マイクロRNAには、タンパク質をつくる量を調節する機能があります。がんとの関係を調べると、胃や腸、食道などがんができる場所によって、組織ごとに異なる特定のマイクロRNAが正常な状態より増えたり減ったりしていました。
骨肉腫という骨のがんは、肺に転移する特徴を持っています。この細胞を調べたところ、miR-143とよばれるマイクロRNAの減少が転移と関連することが分かりました。そこでヒト骨肉腫細胞をマウス膝関節に接種して原発巣を作らせ、その後自然に肺転移を生じるマウスへmiR-143を投与したところ、8割のマウスで骨肉腫の肺転移が予防されました。この結果は、細胞内のマイクロRNA量を調節するだけで、がん細胞の増殖や転移を防ぐ可能性を示しています。
実験病理学分野では、マイクロRNAという視点から「がん転移」メカニズムを明らかにするため、培養細胞やモデル動物そしてヒトの組織標本を用い研究を進めています。さらに、マイクロRNAを「核酸医薬」として、がんの治療や予防へ応用するための基礎的な研究を進めています。
がん化を規定するマイクロRNAの探索
腫瘍は、生物学的悪性度により良性腫瘍と悪性腫瘍に大別できます。悪性腫瘍(すなわち「がん」)は、浸潤・転移能を有し、正常の組織を破壊しながら増殖して個体を死に至らしめます。一方、良性腫瘍は比較的高い増殖能を持ちますが、風船が膨らむが如く膨張性に増殖します。しかし、悪性腫瘍のような正常組織を激しく破壊しながら浸潤性に増殖することも、転移することもないために死に至ることはほとんどありません。一方で、一部の良性の腫瘍細胞は悪性の腫瘍細胞へと性質を変えていきます。いわゆる「がん化」が生じます。しばしば、胃や大腸のポリープや隆起性病変において良性腫瘍から悪性腫瘍への転換が見られます。この良性腫瘍が「がん化」しないように防ぐことができれば、がんを予防するための重要な手段を見つけることになると考えています。
病態生化学分野では、この「がん化」を規定するマイクロRNAの同定を試みています。高い造腫瘍性および浸潤・転移能を示すヒト悪性腫瘍細胞と、造腫瘍性が乏しくて浸潤・転移能を持たない良性腫瘍細胞のマイクロRNA発現を比較したところ、「がん化」を規定するマイクロRNA候補がいくつか挙がってきました。
マイクロRNAは細胞の中で産生されます。これは細胞内に留まって機能するだけでなく、一部は細胞外へと分泌されます。分泌されるマイクロRNAの一部は、エクソソームと呼ばれる脂質二重膜で被包された約100ナノメートル(1ナノメートル=10億分の1メートル)程度の大きさの乗り物に乗って細胞外へ分泌されていきます。このエクソソームは近年、細胞-細胞間のコミュニケーションツールとして機能していることが分かってきました。従って、悪性腫瘍細胞内におけるマイクロRNAの発現や機能異常に加え、その腫瘍細胞が分泌するエクソソームに含まれるマイクロRNAの量的な異常を解析することで、悪性腫瘍細胞がなぜ高い造腫瘍性・浸潤能や転移能を獲得するのか、その糸口をつかめると考えています。
良性腫瘍細胞と比較して悪性腫瘍細胞において発現異常を示すマイクロRNAが、「がん化」を規定する分子として機能しているのではないか?もしそうであるのならば、その分子の発現を元に戻すことで新たな「がん」に対する治療法や予防法が構築できると考えて研究を進めています。